昭和44年8月18日 朝の御理解
中村良一
御理解 第58節
「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」
これは、人が、どんな悪口を言うてもという事だと思いますね。人が、盗人だとか、乞食とかと言う、まぁ一番、悪い悪口だとこう思う。ですから、必ずしも、盗人じゃとか、乞食じゃという風に決まっておるのじゃない。どういう事を言われても、いわば、悪口を言われても、腹を立ててはならんと言うところを大事にしなければならん。乞食じゃと言われたり、泥棒じゃと言われたりした時には、腹は立てんけれども、馬鹿と言われたら、腹が立つと言う。これじゃいけません。ね。そこで、私は思うのですけれどもね。信心を頂いておりましても、信心しておって、とこう言われる悪口が、信心いただいておる者には、やっぱり、きついよね。信心を持ち出されるということは。信心をしておって、日々、有難いお話を頂いておって、教えを受けておりなさるじゃろうのに、そういう事で良いですかという風に、信心がない人達から言われたりすると、何か、本当にきつい思いがします。ね。ですから、それは、勿論、出来るだけ、言われんように、内容がなっていかなければなりませんけれどもです。私は、それが、どういうような、きつい事を言われてもです。腹を立てんで済むおかげを頂かなければいけない。いわゆる、神様は、見てお出でだから、神様が聞いてお出でだから、ね。
信心しよっても、どうして、あんなに貧乏せんならんだろうか。信心しよっても、どうして、あそこの店は、あげん繁盛せんじゃろうか。なるほど、信心はなかっても、どんどん、金を儲かって行きござる人もありゃ、それこそ、どんどん、お店が繁盛しておる家もある。ね。ですから、信心しよってから、どういうことじゃろうかと。ね。これは、あんまり、こちらには響いてこんけれども、まぁ良く言う事ですけれども。あそこは、信心しよっても、朝から何か、ガチャガチャ言いよりなさる。いわゆる、ぶっすり、がっすりと言うでしょうかね。まぁ言うなら、夫婦喧嘩があったり、親子喧嘩があったりしておると。まぁ、それこそ、そういう様な事を指摘されて、その、信心しよったっちゃ、あげん、家の中が、仲の悪かならば、信心が、何んならんというようなです、悪口を言われると。そら、私は、決してその、何時までも、喧しく、ガチャガチャ言うておる様な事ではいけないけれどもです。それがね、それが、お互いが、向上のため、ね。お父さん、そんな事じゃいけなさらんですよ。お前もお前、そげなこっじゃいかんじゃないか。毎日参りよってから、なんち言うこつかと。お互いが、向上するためにガチャガチャ言うておる。親子が、または、わが子供に、または、本当に、より良かれがしと思うて、喧しゅう言うけれども、子供は、それに対して、口返答をしたり、まぁそれが、争いの元になったりする。けども、それがね、より、おかげを頂く事のために、ガチャガチャ言いよるならば、それは、むしろですね。やはり、生き生きとして良いと、私は思うです。神様の御比礼だと思うです。信心しよって、ガチャガチャ言うような事が起きて来る事は、ね。
今朝、私、御神前に出らせて頂いて、一番初め頂いたのは、直ぐそこ、中村さんとこの前にある、大きな森がありますよね。あれを、私共は、安田の森と言いよった、昔から。今は、あのくらいに、小さくなりましたけれども、以前は、あそこはもう、怖いように、大きな森でした。それを、ちょうど、ここから見えおる、その安田の森を、あの、大きな木がですね。こう、ざわざわ、こう、風で揺れているところを頂いた。ね。あの、楽の文句にありますがね。「風騒ぐなり、騒ぐなり」と言うところなんです。ね。風騒ぐなりである。騒がしい、騒いでおる。けれども、そこは、安田の森だと言うこと。安田とは、安心の安が書いてある。田は、田畑の田が書いてある。ね。必ずしも、無風状態と言う様な事が良い事じゃない。ね。風が、ざわざわ、騒いでおるからこそ、生き生きともしておりゃ、涼しくもあるんだと、ね。問題は、根からひっくり返る様な事があってはならんのだけれども、ね。幹はしゃんとして、その、枝葉がこうやって、騒いでおる。信心はしゃんとしておる。それでも、やはり、私共はね、まぁ、最近のように、もう本当に、腹を立てんとか、不足を言わんとか、貪欲をしないとかと。もう、信心の最高、ぎりぎりの所を、まぁ極めた人は、別と致しましてですよ、ね。そこまで行くために、騒がしいことは、おかげだという事。それを、指摘して、例えば、人がです、ね。泥棒じゃと言うても、ね。または、乞食じゃと言うても、信心しよって、あそこは、どうして、あげん、ぶっすりがっすり言いござるじゃろうかと、例えば、よし言われても、ね。私は、おかげだと思う。ね。だから、問題は、そう言われてから、腹を立てなと、言いよるぶんな良かと。ね。むしろ、私共の程度の時には、いわば、風騒ぐなりのほうが良いのじゃないかと。かえって涼しい。ね。だから、それが、本当に、憎み合いとか、殺し合いとかといったような事は許されません。ね。憎いから言うのじゃない。可愛いから言うのだ。より良かれがしと思うから、言うなら、注意もすりゃ、その注意が、大きな声になったりもするけれども、ね。
まぁ、なかなか出来た家庭がありましてね、もう大きな声も出さんといったようなところが、ある事はありますよ。心の中では、こうこしよっても、あの、言葉にも出さん。まぁ、ああだ、こうだと言うてその、いかにも、仲の良かごたるけれども、実際は、いよいよの時になると、いやそれが、さぁ財産分けと言うごたる風な時になると、いわば、血で血を洗う様な事があっておるという様な家庭が、よくあっておりましょうが。大きな分限者さんの家で、それが、良くあるんです。教養が、例えば、静かにしてるって言うのも、いよいよになって来ると、貪欲が出てきてから、いわゆる、血で血を洗う様な事にもなりかねないという様なことではいけない。ね。憎み合いじゃない、ね。殺し合いじゃない。けれども、より、良かれがしと言う思いでの、それならば、私は、結構だと思う。と言う手渡し、それを宣伝してるわけじゃないですから、どうぞ、早速、帰ってから、やりやり、やりなさっちゃ出来ませんよ。けれども、まぁ理屈じゃね、今日の、ここんところは、盗人じゃと言われても、乞食じゃと言われても、盗んでおらなければ良い、貰うて歩かなければ良いと言うのはです。ガチャガチャ言いよっても、より、向上のことのために、言いよるんだと。それを、人は知らない。ね。だから、それを、指摘して、例えば、それだけのことじゃありません、様々な事を、悪口を言われましても、ね。腹を立ててはならん。
次に、私、今日、裏の泉水が、まぁ越してはおりませんけども、その、溢れてはおりませんけれども、もう一杯、ちょっと、水が多すぎるくらいに出ておる。いわゆる、吐くところは、このくらいの穴から吐きよる。出るのは、大きなところから、どんどん出るとするなら、こらまぁ、当然、溢れるようになりますよね。出るのとバランスが取れませんもの。出るのと、流れて行くのと、ね。だから、おかげと言うものはね。溢れるようにあるという事が、決して、おかげじゃない。ね。本当のおかげは、本当に、おかげと実感されるもの。その日暮しでも良い。何とはなしに、やって行ける。人にも迷惑をかけず、ご迷惑かけんなり、ただ、おすがりさせて頂いておれば、必要な事が、必要なように、必要なものが、必要に応じて、ね。それが、まぁ言うなら、曲りなりでありましても、おかげを受けておるという事。
そういう、例えば、おかげを頂いておるなら、よし、人がです、ね。例えば、信心しよっても、貧乏しておるとか、繁盛してないとかと言われても、決して問題じゃない。なかは、いよいよ、いっぱしの鯉が頂けて行きよる時なんだ。あそこには、もう、つー一杯の鯉が入っておりますよ。あの泉水には、もうちっと、多すぎるくらいの鯉が入っておる。鯉と言うのは、お徳と仰るですから、ね。神様は、間違いのない、間違いのないお働きのなかに、日々がです、ね。過ごさせて頂いておるおかげを受けておるならです。はぁ、ここにいっちょ、金が、百万ばっかりあるとねと言う必要はないと。ところが、私共は、そこをその、信心しよって、こげん、不自由であっては、神様に対して、なるほど、相すまんけれども、そういうおかげを頂くための過程であれば、それで良いんだと。ね。だから、問題は、お金の実感と言うものだけは、本当に、どんなに考えても、神様のおかげじゃないかと。お前、昨日は、明日食べるものがないと言いよったが。ちゃんと今日は、今日でまた、このようなおかげが受けられるじゃないかと。ね。そこで、ほんなら、もう、今日は頂いたですけれども、明日食べるものがないですよという時に、ばたばたする様な事では見苦しい。さぁ、あそこに飯を借りに行かにゃんちいうごたるこっじゃ見苦しい。迷惑をかける。ね。そういう時にでもです、ね。神様にお願いをし、お取次ぎを頂いて、こうこうでございますと。ね。今日、おかげを頂いて、今日、頂けたということを、しっかりお礼を申させて頂いておけば、明日は明日、また、明日の風が吹くであろうという様にです。安心して、明日でおれれるということ。なるほど、それが、徳になることだけは間違いないと思うですね。そこから、確信と言うものが生まれてくる。なるほど、神様が、お生かしになってござる証拠に、このようなおかげが受けられると。ね。そういう、積み上げに積み、信心をね。まぁ言うならば、修練していくという事。ね。
昨日、ある方が、お参りをされた。そらもう、きちっとした信心、きちっとした、毎日、お日参りが出来る人じゃないけれども、日曜たんべんには、必ずその、家族でお参りになる。ね。遠方ですから、毎日日参と言うわけにもいかん。日曜だけは、もう必ず、まぁ、ちょっとした事業をしておられます。おかげで、今、段々、順調に行っておりますけれども、以前に、人の事で借金になっておる。二十万円ばかりの金を借りておったのが、先日、通知を受けたのを見ると、利子共に、もう、五十万以上になっておる。馬鹿にならんのですねぇ。元金は、二十万だったけど、高利の金を借りえていて、もう五十万以上になっておる。と言うて、現在、払われない。からと言うて、三千円、五千円ずつ払うと言うても、そげな金なら要らんと言うて、向こうから言いなさる。そして、そんな、あんたどん、信心ばっかりしてから、あんたいっちょん、借金払いも出んなと、悪口を言われる。ね。それで、まぁ今度、そうした手紙を受けたから、その、それも第三者の方から、それを、ちょっと、中に口を聞いてくださった人から、あの、あれはどうなっておるかという風に言うて来たと。それで向こうに、断りにいかにゃいけんじゃろうかというお届けがあったんですよ。だから、もうあーた方、そら、五十万が百万になったっちゃ、払おうと思うとろうもんと、私が言うたら、そらもう本当に、払えるようになったら、つけてでも返やしたいとこう言う。その腹があるなら、絶対、間違いなかけんで、あの、行くこつも要らん。行きゃ必ず、悪口言われるこつ間違いないから、断りだけじゃ、断り行くことも要らん、手紙も出しなさんなと、私が申しました。ね。もう、六七年になるとでしょう。六七年じゃない、四五年ぐらいでしょう。ね。
ですから、それが本当に、払えるまではですね。もう、あん奴どんばっかりは、もう信心しよったっちゃ、その世話した人も、その、本当にもう、あげな信心しよるけんと思うてから、世話してやったら、もう、俺の顔は丸つぶれと言うて、まぁ悪く言われるわけなんです。実際、ほんなら、払えんもんな仕方がない。仕方がないから、こうやって、ほうからけとりゃ、ね。もう催促されんごつなる、払わんでん良かと言うような根性ではなくて、それはもう、期限が切れてです。もう、催促されんでも済むようになってもです。ね。払えるようにならせて頂いたら、その二十万の金が百万に、元利共になってもです。ね。それこそ、それにあーた、もっと利をつけてでも、お払いしたいと言う一念と言うか、思いがあれば大丈夫だと。その間は修行だと。その間は、幾ら悪口言われてもかんまんと、私が言う。これは、私が、体験しとるから、それが言える。
私のは、小さい五万円あまりのお金を借りておった。五万円借りても、四万円、現金の四万なんぼですよね、高利の金と言うのは。もう、ちゃんと、利を差し引かれて。それが、十二万あまりなる、何年かの後に。ある教会の総代をしておる方から借りたんです。まぁその間は、もう随分、えげつないことを言われました。で、こっちも、やっぱ、考えてみると、横着は横着です。教会で、何時も会うです。会うたっちゃ、私に、顔見たなり、借金の催促をしたっちゃ、私は返事をせんです。もう、つーっと、御神前に行って、御祈念する。もう仕様はなか。もうそれが、月次祭たんべんに会わんならんとですよ。しゃっち参ってきなさる。もう、そるけん、やっぱ、人間ですきんね。もう、あんまり白ごとになるとですね、もう帰られん。もう教区、福岡から帰ってくる。もう勿論、その人の前は通られんけん、遠回りして帰ってくる。教会で、またあの人が、ちゃんともう、待ってござると思うと、もう、本当もう。けれどもまぁ、そこは修行と思うて、一生懸命、ね。それでもう、向こうも、ある意味でもう、心得てござるから、大坪さんな、とても、神様が、御礼しなさらん先に言うたっちゃ、同じことじゃけんと思うちから、もう、私は、顔を、じろっと見ただけで、もうものは言わん。そこに、ちゃんともう、火鉢の前に座っとりなさる。早う来てから。それで、私はお参りしてから、お月次祭の時に、はぁもう、決して、お月次祭の終えるまでは言わん。それから、お月次祭が、仕舞えてしまうと、今度、また、新たな御祈念に、私が入る訳です。もうその人が、痺れを切らして帰らっしゃる、までち言う訳ではなかばってん、御祈念が、今でも長いように、昔も長かったんです。人が、一遍するとに、二遍なっとん、三遍なっとん、御祈念せにゃ、気がすまんじゃった。ですから、もう、火鉢の前で、ちゃんと待っとりなさるです。私は、待っとるばのち言わんばかり、あの、キセルでね、火鉢のふちを、カチカチカチカチち、言わせよりなさる。はぁまだ、ござるばいのと。こらまぁだ、御祈念な止められんと思うて、一生懸命、御祈念しとると、いつの間にか、やっぱ、痺れをきらせて帰りよりなさる。もう、キセルの音が、せんごつなってから、御祈念を、はっはは、初めからじゃなかったです。もう、段々、どうにもね出来んのです。そりゃもう、そりゃもう、それこそ、皆が、それこそもう、それこそ、泥棒じゃなかじゃろうか、乞食じゃなかじゃろうかと言う以上のことを言いましたよ。聞こえよがしに。ね。言うこつだけは、どげな素晴らしいことを言うたっちゃ、ね。人に、そげん、迷惑をかけてから、ね。それが、何が信心かと。もうお本当に、それはもう、えげつない事を、しかも、一人二人じゃない。みんなから言われた。ね。
それでもやはり、辛抱させて頂く。おかげで、椛目で、ぼちぼち、人が助かるようになってから、ちょうど、あの大洪水でしたよね。あの大洪水の後に、その教会の畳が腐れてしもうた。誰んその、だから、お供えする者もなかった。だから、総代さん方が集まって、総代で話し合いをされることになってね。それでその、まぁ、家に言いました。まぁそん時には払うてなかった。ね。それで、私はもう、勿論、あの、もう、その時には、元金は、大分お払いしとります。見えるたんべんに、それこそ、五千円、一万円ずつ、お払いして、もう、後わずかになっておった。それで、私はもう、その当時はまだ、お初穂があったつでしょうかね。とにかく、お賽銭箱をひっくり返してから、持って行ってもらいました。ね。勿論、それは、あそこの畳の、腐れた、それをするというのは、もうとにかく、○○さん、ひとつ、あなたの名前でしといて下さいと。勿論、私の名前出したっちゃ、出せるという時代じゃございませんでしたからね、上げましたが。もう、向こうからですね、そのもう、何年後には、私が、椛目で、ぼちぼち、おかげを頂く様になって、払わせて頂く時に、私が払う時には、もう本当、大坪さん、おかげで助かると言うてから、自分が貸しとるお金を貰っていかれましたですよ。その頃は、そこがもう、非常に、難儀になっておられましてね。だから、あの、私が、お払いをする、その、もうその時分には、来られても、二ヶ月分お払いが出来る事になっている。もう本当に、大坪さん、助かる。勿論元利は、勿論ですけれども。もう、それこそ、随分なしこ、最後の畳の、あなたの名前でお供えして下さいという様な時なんかは、まぁ計算するなら、相当な金額を、余分に差し上げ、お返しした訳です。ね。ですから、なるほど、神様が、その見ておってくださる、聞いておってくださるのでございますから、その間は、やはり、言われたんです。泥棒、ぬすとんごたるやっじゃある。ね。うち辺のの、ここの言葉で言うならば。という風に言われたことは間違いない。また、面と向って、えげつない事も言われましたけれどもです。ね。かと言うて、本当に腹は立てません、ただ、本当に、気の毒だとは思いました。度々、嘘になるもんですから。ね。
私は、そういう意味合いにおいてのですね。まぁ、それこそ、風騒ぐなりであり、ね。それは、おかげであるという事。ね。良く言う人がありますよ。早う、こけいっちょ、儲け出さんと、神様に対して相すまん。神様の顔に泥を塗る。そのくらいな事で、神様は、汚れなさるごたる顔じゃないて、神様の顔は。ね。それよりか、その借金払いが出来ないなら出来ない。その五年間なら五年、十年なら十年の間にです。その事によって、いよいよ、力を受けておけという事なんです。ね。その間に、いよいよです、ね。あれも分からせて頂いた、これも分からせて頂いたという信心を、頂いておけという事なんです。ね。それが、だから、何時までも続いては、いわゆる神様の、御名を汚すことになりますけれどもです、ね。御道を汚す、信心を汚す、心配をさす、御簾を奉れとこう頂いておる。ね。その為に、御道を汚しておるようであっても、ね。または、心配をさせておっても、その為に、自分の心を暗くするようにあってもです。ね。その御簾を奉らせてもらえる時までをです。私は、いよいよ、修行期間、いよいよ、力を受ける時期を頂いておると思うて、おかげを受けていかなきゃいけんと思う。ね。そこんところに、私は、心気を病んじゃいかんと思う。ね。
例えば、ほんなら、家庭の上においても、ね。それが、お互いの事の、向上のためと言うか。子供なら子供の事を思うから言うておると。ね。そういう事ならですね、言うても良いけれども、それは、私は宣伝するわけじゃない。ね。それが、憎しみ合うというのではないのだから。より良かれがしと思うて言う事であるならば、言うても良い。ね。夫婦喧嘩でも、金光様、金光様ち言いながら、夫婦喧嘩すりゃ良かち、昔の方達は、お説教のなかで聞いたことがあるですが、確かに、そうなんです。ね。家内が、よう分かるごと、主人に分かってもらう為にです。やりやりであるなら、それはやっても良い。ね。風騒ぐなりである。そういう様な中にあっても、只今申しますようにね。その日、その日の暮らしの上にです。神様のおかげと言わなければ、思わなければおられないと言う、おかげを頂き続けていくならばです。それが、お徳にならんはずはない。力にならんはずはない。もう、明日食べることを、何時も心配せんならんと、と言うような事ではなくてです。なるほど、そういう時代であってもです。今日は今日、明日は明日で、また神様が、おかげ下さる事を確信しての毎日であるならば、それは、有難いおかげである。それが、徳にならんはずはない。ね。
そういう場合、そういうところを通っておる時にです。信心すりゃ、どうしてあげん、貧乏せんならんだろうかと、言うような悪口を聞いても。信心すりゃ、どうしてあんなに、ガタガタ、何時も言うておらんならんじゃろうかと。信心しよったっちゃ、あんた達は、何んならんじゃないかと言われても、ね。心のなかに、金光様が唱えられる。ね。その間に、色々と、分からせて頂くことがあっておればです。ね。決して、幾らよれても、腹を立てなという事。ね。腹の底にはね、おかげを受けるという確信を持っての貧乏なら良いです。ね。
私の修行の、まぁ、真っ最中、いよいよ、もう修行になろうという時分。もうなるほど、お米も、まぁいわば、がつがつといった時代。福岡から、久留米まで帰ってくる電車賃も、度々、お繰り合わせ頂かなければ帰られないといった様な時代。甘木で、九州中の偉い先生方が集まられて、教会の、まぁ主だった信者、それも、皆の教会じゃない。それを、三井教会から、私はまぁ、選ばれて、甘木におかげを頂いたことがある、初代が、まだ、おられる頃。一晩泊まりであった。ね。もう本当にあの、ぎりぎりのおかげを頂いて、それで私が、その会合で、一人ひとりが、皆が発表せんならんのにです。ね。甘木まで来らせて頂くために、お米を持って行かなければならなかったり、その、旅費が要ったり、御初穂が要ったりする事を、こういう様な、その、事で、おかげを頂いてきたという話をした。非常に皆さんが、感動される。みんなが感心して、神様の間違いなさにですね、もう、私が、ちょっと、途中で便所に立ちましたら、二三人の人が、ぞろぞろ着いてきた。はぁもう、今日の話は、もう本当に、最近もう、あげな生き生きした話は聞いた事がなかったと言うて喜ばれた。と言うぐらいなお話だったんですね。いわゆる、必要なものは必要に応じて、最小限度ではあるけれども、そういう難しい中にでも、そういうおかげを受けられるという話をさせて頂いたんです。そしたら、あの、平田重吉つぁん、それから、樋口富江さんですね、本郷教会の。ちょうど、何かの後に、ちょっと、一服という時間の時に、私の所へ、二人が見えてからです。あんな話をしてからと言うてその、私に、もうとにかく、宅を叩いて、私に喧しゅう言われるんです。金光様の信心、あんたがごと、熱心な信心しよってから、そげん、日に日に、食べるとに事欠くとか、要するに困るてんなんてん、そげな事のあるはずはなかて、大体。あげな話をしてからと言うて、もう、そりゃ、えらい、えげつのう言われたんですよ。
私は、黙って聞きよったけども申しました。私がね、何時まで貧乏すると言うてから、決まったことはなかて、私が。けども、このように、間違いのないおかげを頂いておるからには、私は、絶対、おかげ頂くち断言した。それを、直ぐ横で聞いておったのが、あの、この頃、ここへ、青年教師会の時に、講師で見えました、あの、みつ、何でしたかね、三橋さんでしたか。と言うご信者さんでした。ね。もう、ちょいと、そればってん、えげつないこと言う奴じゃあると思うて、その樋口つぁんてんなんてん、思いなさったらしいです。それでその、北九州の、また、偉い人達が、最近です、それは。行って、会合の時にです。合楽が、ご普請があって、こうやって、おかげ頂きよると言う話を聞いて、三橋さんがです。あの人が、あん時の大坪さんじゃっとろうがのと、話が出たそうです。あん時、あん時は、えげつないことを、あんたが言いよったが、大坪さんが、あん時に、何時まで私が貧乏せんならんと言うて、神様に約束しているわけじゃなかて、こういう間違いないおかげを頂きよるけん、私は、絶対、おかげを頂くて、断言しよったが、ほんなこて、おかげを受けた。あんた、あん時に、えげつないことを言うたち言うて、その、悪口を、皆の前で言われたそうですたい。それで、樋口つぁんが、ここへ見えてからですもん、信徒会の時に。話のついでに、私は、大坪先生、そげなこつば、昔、言うたじゃろうかち言うちから、私に言いなさるですもん。言いなさったどころじゃありませんよち、私が申しましたら、そうじゃろ、私は、この頃、戸畑かどこかへ行った時に、あの三橋さんから、もう、その事を言われたと言うて話された。ね。だから、そうまた、信心しておるもの同士からでもです。どんなに、えげつのう言われても、良か事が分かるでしょうが。このように間違いにないという、腹の底のなかに、それがあるから。ね。
ですから、問題は、その確信と言うものがです。出来ていきよらなければ、いけんて。ね。家庭の中のものも、お互いが、拝み合うていけれる様な時期が来ることのために、こげな事じゃ、拝み合えんじゃないかと。あんたが、そげなこっじゃ、あんたば拝もうと思いよるばってん、拝めんじゃないかと。お前もお前じゃないかと言う様な事は、あっても良いんだと。ね。拝み合えることのおかげの頂けることのために、それが、風が騒いでおるならば、それで良いんだという事なのです。ね。それが、今日は、この五十八節から頂きました。ね。泥棒じゃと言われても、乞食じゃと言われても、腹を立てなとこう仰る。ね。それが、例えば、これが泥棒とか、乞食じゃと言うだけのことじゃないて。信心しよって、どうしてあげん貧乏せんならんだろうかと。信心しよって、病人ばかりじゃないかと。災難が続くじゃないかと言われてもかんまんて。今こそ、巡りのお取り払いを頂いておるんだから、有難いという様なものが、心のなかにあれば、それで良いんだと。また、必ず、巡りのお取り払いを頂いた暁にです。なるほど、信心しござったけんという様なおかげになって来るんだと。ね。そこん所をです。言われたたんべんに、腹立てるようなこっじゃ、何時までたっても、おかげにならんです。ね。
神が見て、よく見ておる。しっかり、信心の帯をせよと。ね。いよいよ、しっかり、信心の帯をさせて頂く。神様が、見てお出でだから、聞いてお出でだから。ね。なるほど、高利の金は、どんどん、二十万の金が、五十万にも、六十万にも、百万にもなっていくかも知れんけれども。ね。心の底には、これが、百万が、二百万になっても、必ず、お返しをするんだという一念。神様、返させて下さいという願いならば、それが、幾らかさんで言ったって、心配はいらんばい。ほうからかしときなさいと、私は、昨日、その方に申しました様にです。心配は要らん。けれども、心の底に、それがです、必ず、おかげになるという確信が持てれるような信心を頂いておく。いわゆる、しっかり、信心の帯をしとかんと、その確信が生まれてこんのでございます。どうぞ。